キンバリー

キンバリーは南アフリカの多くの都市の中で最もまばゆい1粒の「宝石」です。ここはかつて華々しく繁栄して注目され、世の人々に驚嘆された所です。 
大量のダイヤモンドの出土に伴って、大量のダイヤモンド掘りが流入し、長蛇の列の車があふれる光景は、全アフリカの誇りでした。しかしダイヤモンド鉱山の枯渇とともに 、またヨハネスブルグ金鉱の大量採掘によっても、ダイヤモンド掘りとダイヤモンド商人たちは続々とヨハネスブルグに移って発展を図ったのです。栄華を誇ったキンバリーは一瞬で暗く光を失った「デスシティ」となり、ビクトリア式の高層ビルも、信徒が密集していたルター教会も、ただの鳩の棲家となり、人々の喧騒で賑わったヤン・スマッツ(JAN SMUTS)ストリートもほとんど誰もいない状況です。静寂のキンバリーは、まるで市の外のカラハリ砂漠のように、風と砂の音以外、久しく人の声を聞くことはありませんでした。
 

沒落したキンバリーはもう再びダイヤモンドを産出することもなく、街に坑夫、博徒及び妖しく着飾った「レディー」も見かけなくなりました。しかし19世紀の繁栄の光景は、デビアス(De Beers)鉱坑博物館の中で一つ一つ再現されています。デビアス鉱坑博物館は実はかつてのダイヤモンド鉱山でした。ここにはデビアスダイヤモンド社の発跡の歴史だけでなく、更にキンバリー開発史も刻まれており、それは南アフリカのダイヤモンド開拓史にも等しいものです。

 

  南アフリカの最初の1粒のダイヤモンドは1866年に発見されました。当時ある一人の子供がオレンジ川の畔で1粒の目立つ小さな石を発見し、それを家に持ち帰って遊んでいたところ、彼の父親に見つかり、なんと1粒の重さ21と4分の1カラットにもなるダイヤモンドだったのです。このダイヤモンドはその後「ユリイカ (EUREKA)」と呼ばれました。
 
2年後またある牧童が同じ場所で「ユリイカ」よりも更に純度の高い1粒のダイヤモンドを見つけ、この牧童はそれを5百頭の羊、10頭の牛、1頭の馬と交換しました。彼と取引した人は、またこのダイヤモンドを売り払い、5万6千USドルを手にして、何人かの手を経た後、このダイヤモンドは1974年ジュネーブのオークションにその姿を現し、当時55万2千USドルで名も知らぬ買主に落札されました。このダイヤモンドこそ重さ83と2分の1カラットの「南アフリカの星」なのです。

一山当てたい坑夫たちは風聞を聞きつけ続々とこの地に「宝掘り」にやって来て、荒野には粗末な市が立ちました。この市に当時のイギリス植民総督のキンバリー(Kimberley)の名を取って「キンバリー」と命名されました。初めにキンバリーにやって来たダイヤモンド掘りの人々は、多くがかなりの収穫を手にしました。なぜなら大部分のダイヤモンド鉱石はとても目立つ黄色い粘土層に埋蔵されていたからです。表土層のダイヤモンド鉱石はあっという間に掘り尽され、これらのダイヤモンド掘りたちは続けて青土層に向って掘り下げていき、最後には掘れば掘るほど深くなってしまい、膨大な採掘工程はすでに一般のダイヤモンド掘りたちの能力では手に負えなくなっており、そうして鉱物会社がこの時に誕生したのです。 
 

鉱物会社の誕生と二人のイギリス人には密接な関係があります。一人はアフリカ南部の開発に最も貢献があったセシル・ローデス(Cecil John Rhodes)で、もう一人は舞台俳優のバーニー・バーナード(Barney Barnato)です。この二人はいずれも19世紀の投機ブームの中で最も成功した冒険家です。ローデスは1853年にイギリスのある牧師の家庭に生まれ、小さい頃から身体が弱く、彼が16歳の時、呼吸器の病気を患い、医者が彼に与えた忠告とは、霧が多く湿気の強いイギリスから離れることでした。そこで彼は南アフリカの兄の下に身を寄せました。彼の兄は元々現在の南アフリカ・ナタール州で綿花を栽培していましたが、ゴールドラッシュやダイヤモンド掘りのブームの中で、彼は利益の薄い綿花畑を放棄して、キンバリーのダイヤモンド掘りに加わりました。当時キンバリーの表土層ダイヤモンド鉱はほとんど掘り尽くされ、多くの鉱夫は商売替えしたいと思っていました。ローデスは大量に採鉱証を購入し、その購入行動はローデスに大部分の鉱山の開削権を獲得せしめることになりました。1883年にローデスはデビアス採鉱会社の主席となりました。この時キンバリーでデビアスに匹敵できたのは中央採鉱会社の大株主であったバーニー・バーナードだったのです。
 

バーナードは元々イギリスで舞台俳優をしており、1873年にケープタウンで下船した後、5ポンドを払い、携行してきた荷物を牛車に運ばせ、自分は車のそばを歩き、夜は牛車の下で眠り、2ヶ月の歩きを経てとうとうキンバリーまでやって来たのです。バーナードの全財産は1箱の低品質な葉巻だけで、商機がつかめず何度も挫折を経て、彼はダイヤモンド買取りビジネスに転業しました。卸売り業者に再転売することで、小利を得たバーナードは、更に採鉱証の買取も兼ねて、何年もしないうちにバーナードは中央採鉱会社を掌握し、ローデスと肩を並べるまでになったのです。 
 
両雄は一連の競争を経て、ついに1888年、両社は合併しデビアス連合鉱産会社となりました。デビアスは二人のフロンティアがその基礎を切り開き、またオッペンハイマー(Oppenheimer)ファミリーの企業経営を経て、ダイヤモンド王国の偉業を作り上げたのです。鉱坑博物館はデビアス社の発展の縮図です。この地は1871年にはカールスバーグ(Colesberg)と呼ばれ、ここでダイヤモンドが発見された後、各地からダイヤモンド掘りたちが流入し 、次々と幌馬車や、商人、坑夫らがここでキャンプを始め、早期に来た者はそれぞれ均しく小さな1ブロックの土地を得て、お互い細い道を境にして掘り下げていったのです表土層のダイヤモンド鉱石が次第に掘り尽くされていくのに伴って、元々あちこちに張り巡らされていた細い道は、次第に一本一本土の崖際に架けられたワイヤーリフトに取って代わられました。

当時キンバリー地区を取り囲むように全部で5箇所のダイヤモンド鉱山があり、それぞれ数千人の採鉱所有社に分割されていましたが、坑道が地下へ向って深くなっていくのに伴って、元々手掘りの坑夫の採鉱技術では深く入ることはできなくなり、ローデスとバーナードはこの「チャンス」の下、採鉱証を買い取り、更に大型掘削機械を導入し、ダイヤモンド王国を創建するのに成功したのです。 

博物館の外には大きな穴(Big Hole)があり、これはキンバリーで最も有名な遺跡です。空中から俯瞰すれば、まるで隕石が落ちてきたような巨大な穴ですが、実際は鉱夫たちがスコップやつるはしで少しずつ掘っていってできたものなのです。これは世界で2番目に大きい人の手で掘削した洞窟でもあり、大きな穴の円周は 4572メートルにも達し、直径は1600メートル、面積は11ヘクタールを占めます。43年の掘削の過程で、全部で2千5百万トンの青土を掘り出し、その中から145万カラットのダイヤモンドを精練しました。

博物館は48棟の古い建物で構成され、ここも往時のキンバリーで最も栄えた商店街で 、金宝飾店、バー、舶来品等の高額消費の店等がありました。当時も一夜で金持ちになれる鉱夫だけがこのように一攫千金を手にすることができたのです。 博物館内にはかつての金庫を改装した陳列室があり、内側には世界最大といわれる未カットのダイヤモンドがあり、重さは616カラット、それと数粒の百カラットを超えるダイヤモンドが所蔵されています。キラキラと目を奪われる輝きと沒落し静寂のキンバリーは強烈な対比となっています。