テーブルマウン

テーブルマウンテンの麓に位置するケープタウン市は、昔ズールー人がカープスタットと呼んでおり、南アフリカの立法首都でありました。ケープ半島の北端にあり、南は喜望峰から30マ
 
イル離れ、市街地や住宅はテーブルマウンテンを取り巻くように建てられています。郊外の部分は南に向ってフォルス湾まで延伸し、当地は地中海性気候に属し、春は平均27℃、冬の平均気温は約7から12度 、雨は5月から8月に集中しています。

1881年のケープタウン付近はまだ独立した小都市が林立しており、1899年の「ボーア戦争」が勃発しオランダ系住民の独立都市が続々と投降または孤立し、1913年南アフリカ連邦が成立した後は、近隣の小都市も次々と連邦に加入し、元々小さな港だったケープタウンも現在のような大ケープタウンになりました。

多種族の文化が多元的建築を作り上げる
ケープタウンは1652年に都市建設が開始され、ポルトガル人、オランダ人、フランス人とイギリス人の統治を経て、更に外から移住してきたマレー人、インド人及び中東から来たイスラム系の民族が、ケープタウン市を色とりどりな多元的な都市へと変えました。
各種文化がこの地で出会うことで、ケープタウン市の建築も異なる風貌を呈しています。特にエドワード式とビクトリア式の建物が最も多く、テーブル湾付近には保存が非常に完全な18世紀のオランダ式建築も残っています。ケープタウンの道路や路地を歩き回っていると、まるでヨーロッパはイギリスのロンドンまたはオランダの首都・アムステルダムにいるかのようです。しかしその中にイスラムのマレー建築も混じり、南洋にいるかのような感覚まであります。

数百年にわたる文化の交替によって、ケープタウンはまるで大きな博物館のように、街には古跡が林立し、詳しく訪ね歩けば宝の山に入ったかのようで、きっとたくさんの収穫があることでしょう。市街地には多くの博物館があり、これら歴史建築物に代わって最も良好な証拠を留めています。18世紀の王朝貴族の家具が展示されたポートランド博物館。各種コイン、切手、銃が展示された文化歴史館。ユダヤ人の祭礼用品が展示されたユダヤ博物館及び各種化石、哺乳類、爬虫類の標本が展示された南アフリカ博物館。特に南アフリカ博物館には世界で最も完全な鯨の標本があり、生き生きとした鯨の標本を目の前にすると、その大きさに衝撃を受け感動することでしょう。

ケープタウンには博物館以外に、高等法院、ゴルゴ教会等の歴史建築はいずれも1836年に建てられたオランダ式建築で、オランダ式建築の入口正面には馬蹄型の屋根が取り付けられ、窓枠は多くが長方形で、建物の外には白い泥灰を塗り、ダークグレーのテーブルマウンテンを背景にして重ねると、格別に目立ちます。 
 

 ケープタウンのマレー人地区はウォーターカント街にあり
 
ウォーターカント(Waterkant)は、マレー人にはボ・カープ(Bo–Kaap)と呼ばれています。オランダ人が植民時代に、イスラム教を信仰するマレー人を奴隸としてケープタウンに売り、ケープタウンにやって来たマレー人たちは モスクを建て始め、ドーム屋根のある建物は、多文化のケープタウンに少しイスラム的雰囲気を添えています。
 

アダーレイストリート(Adderley Street)に位置する市政庁は、17世紀末に建てられた典型的なバロック建築で、突き出た円柱の時計台に、精巧に彫られた大理石の彫像が組み合わさり、ケープタウンで最も雄壮な建築物です。

市政庁前の広場は往時の閲兵場(Grand Parade)で、「ボーア戦争」時には、かつてイギリスから派遣された駐ケープタウンの総督閲兵場所でした。しかし今ではこの広場は花卉市場に変わっており、特にここで売り出されているケープタウンで生産された各色のバラのが最も人を引き付けます。
 

閲兵場のわきが1697年に建てられたキャッスル・オブ・グッドホープ(Castle of Good Hope )で、ここは白人が南アフリカを植民統治した際の最古の古城です。城の周囲の濠と城門は今なお完全に保存され、巨石を切り出して築かれた城塞は、すでに改装されて観光客が見学できる軍事博物館になっています。  

アダーレイストリート終点にある南アフリカ最古の教会──グルート・カーク(Groote Kerk)は、オランダプロテスタント教会の発祥地でもあります。教会は1704年に建てられ、1841年に再建され、教会の講道庁の彫塑は全て名彫刻家・アントン・アンレイス(Anton Anreith)の手によって彫られました。百年が過ぎた彫像は、毎年その名を慕う多くの芸術家たちを引き付けています。
市の中心に位置するグリーンマーケットスクエア(Greenmarket Square)はケープタウンで最も有名なのみの市で、ここは港から1キロメートルも離れていないため、この場所は各国の船乗りたちが最も買い物に来たがるマーケットとなっています。朝9時から午後5時まで売り声は止まず、各種アフリカロウ染めの花布 、木彫り芸品、蜜ロウジュエリー等ここでは「安くて豊富」で、しかも値切ることもできます。マーケットで売られる商品にはインド人が売る銀器製品が最も特殊で、ほとんどがインドから運ばれたか、または中東からのランプもしくは燭台それにネックレス等で、珍しくレトロなデザインは、実に珍しいものです。

グリーンマーケットスクエアから通り1本隔てたのがケープタウンで最も有名な骨董街──教会街です。通り全体が全て2階建て様式のオランダ建築で、どの店の「お宝」も各種各様で、19世紀の水道の蛇口から、古時計、古腕時計までなんでもあります。骨董物のカメラが好きな人は、ここでは宝の山に入ったも同然です。19世紀初めのコダック、ライカ、第一次世界大戦でのミニスパイカメラ等、ここではいずれも購入することができるのです。

教会街の歩道も骨董露天商の根拠地です。たくさんの老婦人が編物をしながら、足下に1、2個の花瓶、ティーポット等を置いて、値打ちがわかる客が来るのを待っています。多くのストリートパフォーマーたちもここに留まり、アフリカのスピリチュアルソングを歌ったり、ギターでアメリカのカントリーミュージックを歌う者もいます。奇抜な服装の芸術家たちもこの街では常連客で、男か女か判別できないのもここでは「当たり前」のことで、教会街全体があたかも大きな美術館のようです。ただ陳列された「芸術品」とはすなわちこれらの骨董品の中で「宝探し」をする芸術家たちです。
 

ビクトリア港のウォーターフロント地区
夜の帳が下り、ランプに灯が点ると、ケープタウンウォーターフロント地区の各地からの観光客や船乗りたちはあちらこちら  
から劇場広場へ向って出てきます。この時ケープタウンウォーターフロント地区全体は次第に静かになり、夕陽の残照の中で、港の船の帆は降ろされ、ただ海鳥の鳴き声または船の汽笛だけが時々遠くから聞こえるだけ。この時人々は息をこらして待っているのです。

突然刺すようなバイオリンの音色がこの静けさを打ち破り、海面が金色の陽の光に照らされ、劇場で最良の自然の照明になります。この時ウォーターフロント地区の小劇場はすでに人であふれ、座る場所がなく、みんな首を伸ばして凝視し、今宵登場するショーや劇を観賞することを期待しているのです。ここはまるでパリのオペラ座のように、温かさと芸術のロマンにあふれています。
 

このような光景は、毎日毎日ケープタウンのウォーターフロント地区で上演されています。ケープタウンのロマンと情緒は、すでに芸術愛好者たちの「殿堂」となっており、深く知れば知るほど、そのきらめきと温かさを持つ一面に深く魅了されてしまうのです。
ウォーターフロント地区の時の精霊は、今なお19世紀に留まっているようです。古い時計台、古い戦艦、防波堤の桟橋等、到る所ビクトリア時代の雄壮な風格が漂い、波止場には多くのマーケットが並び、各種アフリカ彫刻の工芸品を中心に販売され、ここでの「ショッピング」は、買うことよりも楽しむことのほうが大きいです。

湾内には渡し船があり、テーブル湾各埠頭を往復しています。各埠頭にはそれぞれ特色があり、まるで19世紀の世界に踏み込んだかのように、ビクトリア王朝の輝かしい歳月が垣間見えます。港のほとりにはレストランが数十軒もあり、それぞれ味も特色があり、ロブスター、生牡蠣を平らげながら一杯のアイスビールを一緒に飲み、港側の席に座れば、湾内の波に遊ぶアザラシも見ることができ、そのロマチックさにうっとりとしてしまいます。

実は、ウォーターフロント地区はケープタウン人にとって一つの重要な役割を演じているわけですが、ただの海産物の港ではなく、ケープタウンの懐古的なスポットなのです。 「ビクトリア─アルフォード港湾会社」という会社が、18世紀のフロンティアスピリッツが表れているウォーターフロント地区に、30億ランド(Rand)もの資金を投じて、従来の生臭いウォーターフロント地区を、観光の拠点として建設しようと予定しました。
 

全体の工事は1988年に起工し、2000年に竣工しました。完成した後はウォーターフロント地区には80軒の商店、10軒の映画館、25軒のレストラン、のみの市1箇所鮮魚市場1箇所が建ち並  
び、しかも市の中心まで直通する運河まで開削し、より多くの観光客をこのウォーターフロント地区に呼び込むことになりました。

昔の北埠頭倉庫はすでに5つ星クラスのビクトリアホテルに改築されました。68室の客室は通年満室です。なぜならここはテーブルマウンテンを背景に、大きな船が入港するのを眺められる最高の窓だからです。
 

そのため、ウォーターフロントはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフのように、国際観光市場の中でも、ひときわ輝きを放つ星となりました。

 ケープタウンのみの市でのショッピングの楽しみ
 
サファリ(safari)は南アフリカに来た旅行者が必ず体験するものですが、のみの市もまたサファリのように「物をハントして喜ぶ」楽しみがあります。もし数多くの「ガラクタ」の中から気に入った宝物を発見したら、アフリカのビッグ5の動物たちが同じ池で一緒に水を飲んでいるのを目撃した喜びに勝るとも劣りません。 

ケープタウンののみの市はウォーターフロント地区、グリーンマーケットスクエア、ウォーターステーション前広場、閲兵場等大小合わせて10箇所を下りません。しかし規模が大きかろうが小さかろうが、それはいずれもケープタウンの現代の姿を表す鏡なのです。グリーンマーケットスクエアを例に挙げると、この市場に足を踏み入れたら、そこは国連のように各色人種がいて、英語、アフリカーンス語、ヒンディー語、中国語等の売り声が響いています。ここはケープタウンの縮図でもあり、数百年の歴史が作り上げた民族のるつぼを表しているのです。

グリーンマーケットスクエアに足を踏み入れると目が光り輝いてしまいます。伝統手工芸品の他、生花とドライフラワーの店、及び世界各地からやって来た宝石まであって、思わず欲しくなってしまいます。

その他様々な商品が揃っており、更にたくさんの観賞用の木彫、石彫の動物や、ダチョウの卵の殼の装飾品、酋長の椅子等も売られています。

しかしのみの市での宝捜しショッピングでは、必ず値切ることと、他店と値段を比べることを覚えておきましょう。そうすれば収穫いっぱい持ち帰れること間違いなしです。
 

 ケープタウンの最高学府
ケープタウンには国際的に有名な大学が2校あります。一つはケープタウン大学で、もう一つはステレンボッシュ大学です。2校の大学にはそれぞれ特色がありますが、きれいなキャンパスはいずれも、ケープタウンで最も美しい一部分なのです。
 

ケープタウン大学の前身は南アフリカ学院(South African College)で、1829年に創設されました。元々は宣教師に学習させる男子制学院でした。1841年にテーブルマウンテン脊梁のデビルスピークの麓に移転し、1890年には女子の募集も始めました。植民官吏の子孫の教育を主体としていましたが、1918年ケープタウン大学(UCT)に改称し、対外的に公開で学生を募集し、現在は全校には黒人と白人の学生がそれぞれ半数ほどいます。特に医学院 、芸術学及び商業管理学院はアフリカナンバーワンです。台湾留学生も多くここで学んでいます。ケープタウン大学はイギリスの厳格教育の伝統を継承しているため、淘汰率が非常に高く、すべての学生は熱心に勉強し、ほとんどいつも勉強か研究をしており、決して「4年間遊び放題」の大学なんかではありません。

ステレンボッシュ大学(Stellenbosch University)はケープタウン市街地から約40キロメートル離れた場所にあり、キャンパスは南アフリカのワインどころ・ステレンボッシュの街にあります。ここは南アフリカ第2の古い都市で、1679年に建設され、街全体に古跡が林立し、すべての道路は緑の木陰に覆われ、道路の両脇には百年も経つドングリの木が植えられ、南アフリカではここを「ドングリの木の都市」とも呼んでいます。

ステレンボッシュはまるで「リトルヨーロッパ」のようです。この地は17世紀半ばに開発され、ヨーロッパの多くの貴族が難を逃れてここに到りました。彼らは「文明がワインをもたらし、ワインもまた文明を生む」と深く信じ、これらドイツ、フランス、オランダ、スペイン等からやって来た葡萄の種がこの地で発芽し、こうして脈々と南アフリカのワインどころが形成されていったのです。 
市全体のオランダ式建物はいずれも17世紀時に建造され、白塗りの壁は、優雅なデザインで 、青々とした葡萄畑の中に一際目立ちます。酒造場の中にはたくさんの巨大なワイン樽が置かれ、樽の上下には多くの小さな管があり温度をコントロールしています。ワインの甘さは温度によって増減するからです。これがワインのボトルに表示されている「辛口」、「ライトボディ」、「 ミドルボディ」、「フルボディ」の由来となっています。
 

 ステレンボッシュには全部で80軒のワイナリーがあり、国内の供給する他、世界60ヶ国以上に輸出しています。ステレンボッシュで最も有名なシャトーにはニースリングスホーフ(Neethling shof)があり、シャトーの敷地は
 
230ヘクタールで、シャトー全体が青々とした葡萄畑になっています。ここは1692年に建てられ、この3百年間のワイン釀造の方法は、ずっと伝統製法を守ってきました。1985年にドイツの銀行家であるハンス(Hans Schreiber)がこのシャトーを買収してからは、5つ星クラスの田園風ホテルに改装され、毎年無数のヨーロッパの酒のバイヤーと観光客をきき酒、観光に引き寄せています。

ステレンボッシュ大学は純粋にアフリカーンス語を教える大学で、1683年に創建され、アフリカーンス語教育を主体としてきました。1859年にカルヴァン教会が大学先修クラスを設立し、1881年ステレンボッシュ学院と改められました。1887年にイギリスのビクトリア女王即位50周年を祝って、ビクトリア学院と改名しました。南アフリカ建国史上非常に有名なヤン・スマッツもここを卒業しました(ヨハネスブルグ国際空港の旧称・ヤン・スマッツ空港は彼から名を取りました)。
 

1918年、ビクトリア学院はまたステレンボッシュ大学と改名し、芸術、商業、教育、工程、医学、軍事等10の学院を設立し、現在は段階的にアフリカーンス語と英語のバイリンガル授業を採用しています。各学院の中でも特に軍事学院はアフリカ屈指で、多くのアフリカの将軍や元首はここの学院出身です。

全校の校舍はほとんど南アフリカ政府に国の古跡に指定されています。校内には博物館が設置され、アフリカ各種族の文化財及び薬草が収集され最も完備されているといわれています。

ステレンボッシュ大学はアフリカーンス語の授業中心なので、以前は外国の留学生でここで勉強する人は少なかったです。