唯一無二の歴史的町並み

目立たない駅に人跡まばらなカルー(Karoo)が建った時、マジェスフォンティンはすでに100年以上の歴史を経ていたのです。一人の若いスコットランド人のジェームス・ローガンが
 
1883年にこの場所を発見してからは、この街の名は遠くケープ州と南アフリカにも伝わりました。
 

1857年11月、ジェームス・ローガンはバーウィックのレイストンで生まれ、彼の父親はスコットランド人で、鉄道局に勤務する公務員でした。彼は15歳の時に学校を離れ、その後同様に北部英国鉄道会社で勤務し、券売業務を担当していました。

しかし、彼は若い盛りで、旺盛な野心と聡明な素質を持っていたので、彼はこの仕事には全然挑戦性がないと感じました。そこで17歳の年に、彼は大海原の懐に飛び込む道を選び、水夫になったのです。2年後、彼が勤務するオーストラリア船籍の船艦-「ロックハミルトン」がケープ州付近で暴風雨に遭遇し、サイモン湾に入って避難しなくてはならなくなり、この時彼はまた船を離れこの地に留まることを決めたのです。

彼がケープタウンの地を踏んだ時、わずか5ポンドしか持っていませんでした。しかし彼は過去にスコットランドで仕事していた経験にこだわり、当時はまだ草創期であったケープタウン植民鉄道会社に入って仕事するようになりました。始めたばかりの頃は、彼はただの荷運び係で、1日5時間勤務でした。しかし彼は能力に優れ、すぐに昇格の機会を得たのです。20歳の時、彼はすでに建造されたばかりのケープタウン駅の駅長でした。21歳の時、彼とエマ・ヘレンと結婚し、その後彼はヘックスリバー(Hex River)とプリンス・アルバートロード(Prince Albert Road)鉄道支線の区域監督になりました。

彼はタウンズリバー(Touws River)に駐在し、当時はモンターグロード(Montagu Road)と呼ばれていました。この道路に沿って北へ55キロメートル走るとマジェスフォンティンで、道路を走っても線路を行っても、この2本はいずれも北へ向う主要幹線でした。多くの旅行客はトラックや、馬車または鉄道に乗ってキンバリーで最も豊饒なダイヤモンド鉱区に入り、この地でまたも金鉱脈が発見されてからは、当時の宿泊と食べ物の価格は以前よりもずっと高くなりました。もしこの二つのサービスを同時に提供できたら、得られる収入は絶対に鉄道局の仕事よりも多くなると確信できました。

そこで、彼の心の中では鉄道食堂車の雛型が次第に形作られ、駅に鉄道レストランを設立する機会も開発を待っている状態でした。ジェームス・ローガンは機転を利かせて、ベッドから飛び降りるやすぐさま行動を開始しました。当時彼はまだ鉄道会社に勤務していながら、タウンズリバー(Touws River) に鉄道レストランを開設する許可を得ます。そうして彼はテナントとなり、フレールホテルホテル(Frere Hotel)も同じ年に完成しました。この一年のうちに、ローガンは退職し自分の事業に専念することになったのです。
 
 
タウンズリバー(Touws River)にやって来てからと言うもの、ここの乾燥した清浄な空気が彼の長年にわたる胸の痛む病気も治してしまい、
 
 
そこで1883年、彼は妻と2人の子供を連れてずっとマジェスフォンティンに定居することにしたのです。1884年、彼はホテル建造の許可証を取得し、この時から、彼は一歩一歩着実に自分の欲する富と地位に向って邁進していったのです。

1884年、ボーア戦争が勃発したこの期間、彼はビクトリア式の華麗で堂々としたリゾートホテルを建設しました。旅行客はここでリゾートを楽しむ他、健康を増進することもできました。このホテルはその後多くの金持ちとセレブがしばしば訪れる場所となりました。南アフリカ女流作家オリーブ‧シュライナー(Olive Schreiner)も何度かこの地を訪れたことがあり、彼女が時々居住したコテージは現在オリーブ‧シュライナーコテージ(Olive Schreiner Cottage)と呼ばれています。
 
 
何年もの間、ダイヤモンドの巨商・ロータスもよくこの地を訪れた他、何人かの政府首長、世界各地の国家元首とケープ州の主要政治人物及びイギリスロイヤルファミリーや貴族も、このホテルに宿泊したことがあります。ですから、世界中の人たちは彼こそ「マジェスフォンティンの地主」だと知っているのです。

この都市も彼の莫大な事業の総本部の所在地(かつてある時間、彼はケープ州からブラワヨ州までの鉄道レストラン開設の許可証を擁していた)で、彼が鉄道会社を離れてから10年で、彼はこの州付近に更に10万エーカーの農地を所有するようになりました。36歳の年には、彼は旧ケープ州の国会議員になり、上議院と下議院にて長年にわたって務めました。

ボーア戦争期間はマジェスフォンティン郊外に1万人の軍隊と2万頭の馬(大草原の上では今なお当時捨てられた錆びたコンビーフ缶とビスケット缶が発見されます)が駐屯しました。最近修復が完成したばかりのミルナーホテル(Lord Milner)は、一部が戦争期間に患者のリハビリセンターとして、ホテル中央の望楼は軍隊の哨戒所として利用されました。

1920年、ジェームス・ダグラス・ローガン(JD Logan)は世を去りました。享年63歳でした。その時から、このホテルは以前のように多くのセレブや政治家たちを引き付けることはなくなり、次第に沒落していき、第二次世界大戦の勃発で戦争での必要性からホテルわきに国道(National Road)を建設すると、ますますすたれていきました。

ホテルがすでにすたれ老朽化も甚だしくなったとはいえ、この古くビクトリア精神あふれる建築にはなおも発展の潜在力があり、ジェームス・ローガンはなおも鉄道レストラン開発の適切な時機を待っていました。
 
 
1968年、デビット・ロダンがこのホテルすべてを買い上げ、2年近い時が過ぎた、1970年11月1日、元々のホテルミルナー(Hotel Milner)をロード
 
 
ミルナー(Lord Milner)へと改名し、リニューアルオープンしました。新たにオプションしたロードミルナーホテル(Lord Milner)は非常に優雅で快適、しかも美味な料理も提供しました。

ホテル内には14室の内装が非常に華麗な客室があり、すべての客室にバス設備が備え付けられています。この他、ロードミルナーホテル(Lord Milner)には庭付きのスイートルームがあります。骨董式の公開レストエリアと図書館は直接広々として快適な庭と門廊へと通じています。
 
 
レストエリアと図書館の右側は「地主の腕」であり、ここは温かく楽しい雰囲気にあふれたビクトリア式のカントリーバーになっています。中には非常に記念的価値のあるジェームス・ローガン、クリケット選手等の写真もあり、おそらくこの国の数多くのスポーツの最大のスポンサーだったのでしょう。

ローガンストリートからケープタウンまで散歩すると、あなたは3棟とその他二つの部屋が連なって一緒になった建築物を見かけることでしょう。しかも中間部分は郵便局になっています。この郵便局も一つの代行販売機構で、地元の酒類と記念品を販売しています。そこに向き合った時、あなたはその左側が女流作家オリーブ‧シュライナー(Olive Schreiner)が当時地主に借りた小さなコテージ-オリーブ‧シュライナーコテージ(Olive Schreiner Cottage)だと気付くでしょう。

右側はオールドミュージアムスイートルームで、ここは一家全員が一緒に宿泊するのに非常に適しています。ここから更に一本の路地を過ぎると、市役所/レセプションサービスセンターです。

かつてローガンが商品を販売していた商店は、現在修理を経た後一軒のカフェに生まれ変わりました。1階はコーヒーを売る場所で、コーヒーの他にも、あなたはクッキーやホットサンドウィッチを注文して食べることができます。

カフェ後方には更に6室以上の部屋があります。その隣にはローガン共済会のロッジ(Logan's Masonic Lodge)があり、現在はダイ・ロジスシュス(Die Losieshuis)と改名され、これはおそらくマジェスフォンティン最古の建築かもしれません。ここは家族全員で宿泊するのにとても適しており、価格もリーズナブルです。ここの「ジェームスズバー」では一般の夕食を宿泊客に提供しています。

ここから出発してちょっと行くと、ツイードサイドロッジショッピングセンター(Tweedside Lodge Complex)に着きます。ここはジェームス・ダグラス・ローガン(JD Logan)とその娘の住まいです。彼の娘はジョン・ブイスト(John Buist)卿の妻なのです。ここは対外的に開放していません。

ロードミルナーホテル(Lord Milner)に戻ると、レイストンヴィラ(Reston Villa)から遠くない場所に、あなたはかつてローガンの息子(ジミージュニア)が、妻と二人の子供と経営したホテルを見ることができます。現在、ホテル内には4室の客室、更衣室と浴室があります。

曲がり角から更に下へ歩くとバビアンス川(Baviaans River)に着き、左側に見える一棟目の建築が旧法院ビル(Court House)です。この華麗で堂々とした建築は1897年に建てられました。将来、この4棟半のつながった建物はモーテルに生まれ変わる予定で、ホテルの前後に車を停めることができます。

それから、見えてくるのが1895年に建てられた古い「教会」建築で、過去にはここがコンサート会場として提供され、学校としても使用されました。ここはマジェスフォンティン市民のレジャースポットでもあり、将来はここでも各種会議やフォーラムが開かれます。

今なおギザギザなガラスが嵌め込まれた警察庁舎の中は、バスルームが備え付けられた部屋が二つあり、隣のリバーコテージ(River Cottage)にも同様な設備があります。

マジェスフォンティンは2本のL字形に似た「腕」に抱かれており、L形の後ろは大型の開放式広場です。ここではあなたはまたも多くの快適そうな別荘と人を魅了するガーデンスイートルームを発見するでしょう。これらの部屋の窓からはいずれも対岸の景色を眺めることができ、それには室内プールと貯水池も含まれます。両者とも百年以上前の建物で、当時の地主によって建造されたものです。宿泊客はプールサイドのガーデンで休息し、美しい景色を眺めることができます。

修復工事の終了後、マジェスフォンティンには70部屋が旅行客に提供されることになり、ほとんどの部屋にはバス設備が付き、しかも客室内にも様々な施設が宿泊客の使用に供されています。

道路の向かいは「新」鉄道駅です。1890年12月に建てられました。現代化と科学技術の影響で、現在は駅としては使用されていませんが、今では設備の完備された会議センターと博物館になっています。ここではマリー・ロダン博物館(デビットの母親の名前から命名された)を身逃がすことはできません。この博物館には数多くの偉大な作品が収蔵され、おそらくこの地区唯一の一般見学に開放された大型私設博物館です。この他、古い手動信号機展示区の隣がトランスネット(Transnet)博物館です。

この街へ行くのは非常に便利です。ケープタウンの国道(National Road)を北へ向って走り続けること約240キロメートルで、マジェスフォンティン市に着きます。

もしあなたがこのツアーの感覚をローガンホテルに泊まっているように素敵にしたいなら、鉄道に乗るべきです。鉄道沿線の過ぎ行く景色は非常に壮観で、カルー(Karoo)という海抜1000メートルの高原地帯に着いた時には、あなたが吸い込む空気はドライシャンパンのように芳醇なはずです。